永岡隊隊長で安国寺住職であった永岡さんの形見の数珠が、翁長さんにもどりますように。
Captain Nagaoka Ankoji temple occupation Mr. Nagaoka
I hope that the beads of Hatami will be returned to Ms.Onaga. Goods of memories
故翁長雄志知事の原点
広島経済大学 岡本貞雄ゼミナール
オキナワ慰霊の日にあわせて ゼミの 遠征写真展
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永岡隊
松川桶川ひーじゃー
1入隊と水くみ、食料はこび アメリカさんは六時半になったら動きません
唯一の武器は からやーむい にある てきだんとう。あとは小銃。
海から艦砲射撃、空から爆撃、陸には戦車、機銃掃射、野戦砲
やられっぱなしですが、新都心の辺りでは地下からの攻撃でアメリカ兵も5000人くらい・・・
日本軍司令部が首里城にあった。ひーじゃーはその中間にあるので・・・・
注2: ※永岡隊
特設警備第223中隊。 中隊長永岡敬淳少佐の名から、通称永岡隊と呼ばれる。1944年2月に編成されたが、当初中隊本部に常時配備された人員は4名。那覇市近郊の在郷軍人約240名に特命令状を出し、指揮班と三個小隊からなる。待命令状とは、いつでも招集に応じられるよう待機を命じた令状で、在郷軍人に市民としての仕事を続けさせながら、非常時に軍が招集する郷土部隊。県内各学校の教練教官、官公庁勤務や予備役軍人が多かった。(田村洋三著:「沖縄一中鉄血勤皇隊」より抜粋)
※てきだんとう 小銃で発射する爆弾
2 「首里攻防戦のはじまり」
証言場所:首里観音堂(慈眼院)
井戸があったガジュマルの所から、バスが通っているあたり一帯を今帰仁森なきじむない といって、琉球王朝時代の「官松嶺がんしょうれい」という森でした。今は削り取られて、ホテルと民家があります。その民家の上の所に永岡隊(指揮班と第二小隊)の豪がありました。私はそこに34日いました。それから左手の下の所に森(瓦屋毛:からやーむい)が見えますね。そこに第一小隊が。
私が入った壕は、自然壕ではなくて掘った壕で堅固に作られいました。その壕を中心に、弾の中を水くみや飯運びをしました。。弾の中をよくくぐりぬけたと思います。何度がグラマンの機銃掃射にあいましたが、体が小さいので側溝に隠れたりして逃れました。朝晩、攻撃がない時に運ぶようにしましたが、次第に昼夜ひっきりなしに弾が飛ぶようになりました。
・・・4月29日ですが、天皇誕生日に、兵隊さんに最後のご褒美ということだったのでしょうね、恩賜のたばことお酒が配られました。第二小隊がそれを取りに来られた時に、女学校の担任の糸数先生に会いました。先生の名前を呼んだら、振り返って「どうしてここにいる。ちょっとこい」と言って、私の手を引っ張って隊長殿のところに連れていかれました。当時、隊長のところは恐れ多くてこどもの私がいける場所ではなかった。先生は私をそこへ連れて行き、隊長に「僕のクラスの子です。どうぞよろしくお願いします」と言われました。私は初めて隊長殿にお会いしました。隊長の次女の敬子さんと同級だということがわかりました。クラスは別でしたが知っていました。「敬子は熊本だよ」とおっしゃいました。家族は熊本へ疎開させているのに、この子は残っていると思われたんでしょうね。それからというのは、・・・顔を見たら「気を付けて行動しなさい」と声をかけてくださる・・・子弟愛ですか、忙しい中隊長をされていた渡嘉敷のおしさんが糸数先生と一緒でした。おじさんは「お父さんが山原(やんばる)からあなたを迎えに自宅に戻っている」と教えてくれました。
3入隊の経緯
家族は県の命令で2月27日に疎開・・・農園があって動物がいたので誰が世話をするのかということもあり・・・長男、次男も陸軍と特攻隊で出征・・・自分もお国のために何か役に立ちたい・・・私が留守番するから・・・父は、この子は言い出したら聞かないとあきらめて「二週間経ったら迎えに来るから、それまでに覚悟を・・・」しかし、待っていましたが父は来ませんでした。そのうち、3月23日に南部の・・・艦砲射撃。皆南部から戦争がはじまると・・・まさか100日も戦争が続くとは思いませんでした。・・・貞子さんが看護要員として ひめゆり学徒隊にいきました。それで私は一人になってしまいました。・・・近くの郵便局員などの二十歳前後のお姉さんたちに混ざって、私も希望して永岡隊に入りました。
15歳の小娘が何をするのかと、みんな腑に落ちなかったでしょうが、・・・水汲みと飯運び・・・その時はあまり激しい爆撃もなかったので 看護指導を受けました。包帯のまき方、三角巾 応急処置 衛生兵から習い いきなりそういう指導を受けても身につくわけはないので、炊事のほうを受け持ったわけです。
4激化する首里攻防戦
・・・死傷者がどんどん出ました。治療する場所がないんです。陸軍病院は首里城の裏にある 首里城めがけて弾を打ち込んできますから、患者を運ぶ途中でやれて 山部隊(24師団)という所から患者を運んだお姉さんたちが戻るとき、焼け野原 隠れる場所がなく 日本兵にスパイではないかと疑われ 焼け野原になったあんなところを女が二人でうろうろしているということは、スパイに違いないと疑われました。石部隊(62師団)の渡辺という少佐に散々悪口を言われて、このお姉さんは自分の持っている手りゅう弾を 方言で 永岡隊長が「方言を使ったけどどこの出身か」ときかれました。そして「いきさつを方言でもいいからはなしてごらん」 隊長の中学時代の同級生の子供でした。同級生の弟さんも小学校の校長をしておられたため永岡隊長と縁のある人でした。「お前らはスパイか慰安婦だ」と疑われていたのですが、その証言で嫌疑が晴れ 合流 看護のベテランだったので大変たすかりました。
最後は 夜中に脱出 5月18日安国寺の境内 お寺はすでに焼け 今の首里高等学校 安国寺の壕は 一中けんじ隊が 南部に撤退 20数名 生き残ったのは5,6名。
証言場所:首里観音堂(慈眼院)
「首里攻防戦のはじまり」
井戸があったガジュマルの所から、バスが通っているあたり一帯を今帰仁森なきじむない といって、琉球王朝時代の「官松嶺がんしょうれい」という森でした。今は削り取られて、ホテルと民家があります。その民家の上の所に永岡隊(指揮班と第二小隊)の豪がありました。私はそこに34日いました。それから左手の下の所に森(瓦屋毛:からやーむい)が見えますね。そこに第一小隊が。
私が入った壕は、自然壕ではなくて掘った壕で堅固に作られいました。その壕を中心に、弾の中を水くみや飯運びをしました。。弾の中をよくくぐりぬけたと思います。何度がグラマンの機銃掃射にあいましたが、体が小さいので側溝に隠れたりして逃れました。朝晩、攻撃がない時に運ぶようにしましたが、次第に昼夜ひっきりなしに弾が飛ぶようになりました。
・・・4月29日ですが、天皇誕生日に、兵隊さんに最後のご褒美ということだったのでしょうね、恩賜のたばことお酒が配られました。第二小隊がそれを取りに来られた時に、女学校の担任の糸数先生に会いました。先生の名前を呼んだら、振り返って「どうしてここにいる。ちょっとこい」と言って、私の手を引っ張って隊長殿のところに連れていかれました。当時、隊長のところは恐れ多くてこどもの私がいける場所ではなかった。先生は私をそこへ連れて行き、隊長に「僕のクラスの子です。どうぞよろしくお願いします」と言われました。私は初めて隊長殿にお会いしました。隊長の次女の敬子さんと同級だということがわかりました。クラスは別でしたが知っていました。「敬子は熊本だよ」とおっしゃいました。家族は熊本へ疎開させているのに、この子は残っていると思われたんでしょうね。それからというのは、・・・顔を見たら「気を付けて行動しなさい」と声をかけてくださる・・・子弟愛ですか、忙しい中隊長をされていた渡嘉敷のおしさんが糸数先生と一緒でした。おじさんは「お父さんが山原(やんばる)からあなたを迎えに自宅に戻っている」と教えてくれました。
9一人ぼっちの逃避
さとうきびも何もかも焼き払われて隠れるところも何もない
血の海。岩と思って踏んだら遺体の頭。ステンとコロンで落ちたら上から機銃掃射、リュックと背中付近を撃たれた
10おわりに
遺骨収集 ダイジェスト
塹壕の壁に爆風で散ったなまくび
木々の枝に爆風で散った遺体の一部
不発弾があるので 地表から見える遺体だけを集める。けっして上から押してはいけない。
アメリカ兵はそんなところでも平気で宿営していたようで、そこをきれいにした。
遺骨収集の許可すらなかなかだしてもらえなかった。
学校に通う途中で黒人が女学生を襲ってくる。
国連軍が我が物顔で通る
折り重なる遺体 母と子供二人らしき遺体 大きいのを囲んで四つの遺体 どれも避難中の人たち
麻袋三枚が寝床。砂地に二枚ひいて一枚かける。
南部では戦争、北部では学校がはじまる。
ヨモギの煮汁と海水で消臭
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オキナワの北の端っこ付近では 地形がかわるほどの アメリカさんによる 艦砲爆撃があった様子
打ち返すと狙われるので撃てなかった、また弾もあったかはよくわからない様子
看護婦としてというより軍隊として組織され、前線におくられた様子。
馬乗り というアメリカさんによる防空壕の破壊方法。
ぎゅうぎゅうづめの入り口付近の数名は手りゅう弾の盾に。火炎放射器で皆やけただれる。
当時は、降伏などしてはいけない。
とちしゅうようとかいうことではなく、いのちからがら生き残り 北方面の艦砲爆撃の激しかったところ?の遺体を「掃除」するのがおもな作業になった。
死臭がすごいので 母がヨモギを煮出したお湯で なんとか臭いをとろうとしてくれた。
みもともなにもわからない屍はたくさんあった。なんの手掛かりもない。もちろん家族の元へ何も戻らない。
アメリカ軍への投降
それでも私たちは捕虜になるといろんな目に合わされるということを聞いていましたので・・・
隊長さん・・・もともと安国寺の住職ですから 先祖伝来の数珠をずっと持っておられて これを預かってくれ
18歳になる具志堅さんという方が・・・わたしをおぶって 外に出ました。
外に出ると同時に・・・真っ先に取り上げられたのが数珠でした。私は、しがみついたんですが、あとから来た姉さんたちが「安ちゃん手を離して、みんな殺されるよ」と言ったものですから手を離しました。「これほど大事な数珠をとりあげられてたまるものか」と思いましたが、みんなの命には代えられませんでしたから手を離しました。その数珠はそれっきり・・・
他の証言で、のちに電動のこぎりや 上陸用艦艇など どんどん攻め込んでくるアメリカさんをみて これでは勝てないな。
他の証言で、数日何も食べず、夜になると逃げていたが、捕虜になって やっとほうふなバイキングがあたえられた。ぽけっとにいれてもっておこうとしたら「おかわりをあげるから」ということで返した。
他の証言で、自爆用の手りゅう弾はまともなものはすでになく、兵隊さんが缶詰を使って作ったものであった。集団自決しようと天皇陛下から贈られたタバコをふかして起爆したが 湿っていたのか爆発せず全員が捕虜となってしまった。なおこの爆弾は敵陣へ特攻するためのものであったが、これでは犬死だったなぁとおもった。
他の証言で、軍の中央からの”オキナワよせあつめ兵隊解散命令”のようなものは出ていたが、伝わることはなく 最後の数日がすさまじい砲撃にさらされることになった模様。
他の証言で、捕虜になった後はハワイ言ってアメリカ本土に行って、日本に戻された。アメリカ本土にはヨーロッパの捕虜もいて、アメリカさんはぼくらを地球の反対側からはるばるこんな遠くに連れてきたり 日本人にはよくわからない、かわったことをする人たちだなぁ、と思った。
実感がなかなかわかなかったけれど、国立大学の学長や護国神社の総大司教が隊長というはなしのように思う。名誉なこと。異論などとなえられようはずもない。
現代から考えればブレーキがない。やばいよね、普通。陸軍大将と 恐れ多くも天子様は の世界。226や515も参考になりそう。一億総玉砕、勝つまでやるのが当たり前っぽい話。しかも陛下に責任を取る際 みずからの頭を打ち抜いてなどと・・・なんとも無責任な。
負けることを予定していなかったから当たり前なのか、国際法なりなんなりの国家間交戦規定は「第一次大戦からなにも学ばなかった」のか 生み出していなかったのか 疑問。(読者感想
不意打ちにせよ通信エラーにせよ真珠湾で現職大統領の息子は戦死しているときく。戦争突入反対の大統領もさすがに こしぬけ というわけにもいくまいから・・・そもそも国力を浪費する遠征など南北統一をやっと果たした移民の国の民がのぞむだろうか。さらに原爆前後でアイゼンハワー トルーマン 大統領がころころ変わっているのではないか???要出展、要調査)戦争開始と終わりで代表者が違うって、まさかそんな無責任なことは無いとは思いますが。(読者ざれごと
はんかちちりしがむ大砲
第一次大戦で 砲弾が敵であれ見方であれ 兵士にあたった際に及ぼす 傷跡、陥没の様相が あまりにひどすぎると 医師たちから非難されたのを 為政者たちは まったく意に介していないのか。これは兵士対兵士であっても あまりにひどい危害を与える大砲はよろしくない、ということではなかったか。
いわんや民間人に対して害が及ぶとあっては いったい為政者たちや軍属はなんの所以あっての存在か。だれでもなんでもゆるされるのであれば 小学生が爆竹で行うカエルの実験と同じではないか・・・以下省略
やつらはそれがつかいたくてしょうがなかったのだ。あと九つ?も予備のソレがあったのですぞ。あんただれ?さんきち?ああ、尻丸出しの。
これらは英訳されることが望ましい